2024.7 : 病床で手にした1冊から

昨年の10月、東千葉メディカルセンターに緊急入院した際、妻が病床に届けてくれた1冊の本の中から、気になる箇所を走り書きしたメモが出てきました。

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『制度の違いが道徳の概念を異なるものにする』、
「根源的な善悪や価値観が存在しない」
このことから、例えば
「社会から糾弾されるかどうかだけが善悪の判断基準である」
としたら、
「相互監視(いわゆる他人の目、社会の罰)がなくなると、一気にモラル(道徳)が崩壊し、犯罪が横行する可能性が否定できない」
というものでした。

これに対して、そのとき私が感じたことは以下のようなことでした。
・常に念頭においていることですが、水は既にそこに在り(自然が用意したもの)、器は水を運んだり溜めたりするために必要なものです。 つまり、水は器を必要としませんが、器は水が無ければ存在する意味を成しません。

ここで水を人、器を社会に置き換えてみます。 すると、「制度の違い」は社会について言えることで、異なる道徳の概念にも同じことが言えます。 人には、元々道徳の概念など存在しないのではないかと思います。

もしも普遍的な道徳の概念を必要とするならば、普遍的な制度が必要になるでしょう。 これは、制度が変わらないということではなく、変わらない部分と必要に応じて変わる部分があるということではないかと思います(遺伝子が良い例です)。

・先進国では、以前からこの点が明確(長い歴史の中で考え方が育まれてきた)になっているものと考えられ、明治維新以後急場しのぎでつくられた社会は、中身はともかく表面的な制度の導入を優先せざるを得なかったと考えられます。

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この続きは次の機会に譲るとして、今朝の「虎に翼」で、確か「法と道徳は別のものであり、法の下に道徳が規制を受けることがあれば、それは憲法(日本国憲法第14条)に反する」という場面があったように思います。 正直なところ、今の私ではその真意にまで考えが至りません。 しかし、法を器、道徳を水と考えるならば、法(器)は道徳(水)を規制するものではなく、道徳(水)と誤って捉えられてしまう非道徳(水の中の不純物)を規制するものと理解できるのではないかと思います。

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