トランジション・タウン 九十九里町が「池上彰の教養のススメ」から学ぶこと

たまたま東金図書館で目にした「池上彰の教養のススメ」(2014年、日経BP社)の冒頭に記されている「一生使える『知』の道具を手に入れよう)から、私が気になった部分をご紹介しようと思います。 ただ、「教養」という言葉を使うと誤解を招くかも知れないと感じたため、あえて外してあります。
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「日本企業は、『これまでのルール』に則って『合理的』に格安でモノを作ったり、サービスを提供したりするのに長けていました。 しかし、『これまでのルール』が崩壊し、自らの力で新しい市場を創り、新しい顧客を創り、新しい世界を創る、そんな創造性を必要とする時代になると、魅力的な製品やサービスを開発できなくなったのです。 アメリカやヨーロッパの新興企業が、次々と新しい製品、世界を席巻するサービス、美しいデザインを体現し、市場を制していくのに対して-。 なぜ、日本企業が創造できなくなったのか?」
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皆さんは、もうお気付きのことかも知れませんが、

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「実社会には、そもそも『正答がある問題』そのものがほとんど存在しません。 何が『問』なのかさえ判然としないことが珍しくないのです。 学校のように、問題があって正答を答えられたら合格、ということはありません。 向き合っている世界の中から、自ら問題を発見し、自ら答えを見つけてくる。 狭い専門分野に収まっているだけではできないこと。 それが実社会で生きる、ということです。」
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そして、私の都合でごめんなさい。 九十九里町の学生さんにお伝えしたいことがあります。

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大卒の大半がサラリーマンとして中産階級に属するようになりました。 かくして教養と修養を差別化する必然性がなくなったのです。 80年代以降は、教養よりもはるかに重視されるものさしが現れます。『お金』です。 端的に言ってしまうと、教養があって貧乏な人と、教養がなくてもお金持ちな人とどちらがいいか、・・・問うと、やっぱりお金を選ぶ、という時代になっちゃったんですね。 ・・・社会を動かす要因が政治から経済になり、社会そのものが市場経済化していくようになり、以前からの古色蒼然とした『教養』は役に立たないものという烙印を押されてしまいました。 ・・・大学も変わりました。 教養主義は廃れ、専門化が進み、結果として『できる人間』『できて儲けられる人間』を育てる場になりました。 ・・・一見役に立たない『教養』を学ぶ時間をどんどん削って、専門科目だけを徹底的に習得させると、たしかに学生たちは『できる人間』になります。 でも、この『できる人間』とは、あくまで『決められた枠組み』で『できる人間』のことなんですね。」
ここまで —-

学生さんの中には、ピンッときた方がいらっしゃるかも知れません。
これって、最近流行りの人工知能(AI)でさえ問題になる「過学習」(厳密な意味はともかく)と呼ばれているものです。
「シンギュラリティ」という言葉に、将来の自分の進むべき道に不安を覚える学生さんもいらっしゃることでしょう。 つまり、これから先何年か掛けて習得したことが、実社会で役に立たないとわかった時、どうすれば良いのか(今は)わからないということではないかと思います。

それならば、不安を不安のまま残しておかずに(漠然とした不安を明確な問題意識に変えて)、同じような不安を抱える人たちと問題を共有するための行動を起こしませんか?
明日の九十九里町を担うのは、「決められた枠組み」にとらわれない皆さんです。

※ 今月(2022年11月)の学習会は、11月27日(日)の14:00~14:30に開催する予定でいます。 タイトルは、「知のリ・ローカリゼーション」です。

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